賃金の減額や、従業員形態の変更(たとえば正社員からパートへ)にかかる同意書に署名するよう雇用主から求められて署名してしまったといった話がよくあります。契約は契約当事者の合意によって変更できます。労働契約についても、法律は、合意によって契約内容を変更しうることを規定しており(労働契約法8条)、原則は異なりません。
しかし、署名を拒否した場合には不利益な取扱いを受け、場合によっては解雇されるかも知れないと思えば、たとえ不本意であっても署名を拒否し難い心理は容易に想像できます。それでも、署名し、同意する意思を明示してしまった以上、労働者は、その合意による拘束を免れないのだとすれば、労働者の地位は極めて不安定なものとなってしまいます。
この点、近時の裁判例は、「労働者が自由な意思に基づいて同意したと認めるに足りる合理的理由が客観的に存在したか」どうかを問い、労働者の同意を慎重に認定する傾向を示しています。裁判例は、合理的理由の客観的存在が否定されれば、たとえ同意書への署名があり、形式的には同意の意思表示がなされていても、同意の存在ないし効力を否定することがあるのです。
この、いわば「自由な意思に基づく同意」の法理の淵源は、既発生の退職金その他の賃金債権の放棄や相殺合意について、それらが労基法24条1項の定める賃金全額払いの原則に反しないかが争われた事案で、最高裁が自由な意思に基づく同意があれば同原則に反しないという判断を示したことに求めることができます(シンガー・ソーイング・メシーン事件最判S48.1.19、日新製鋼事件最判H2.11.26)。
その後、賃金等の労働条件の引下げに対する同意について、類似の判断枠組みを用いる下級審判決が現れるようになっていたところ、最高裁は、山梨県民信組事件最判H28.2.19において、賃金・退職金に関する不利益変更にかかる労働者の同意の有無について、「労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的理由が客観的に存在するか否かという観点からも、判断されるべきもの」と判示しました。
上記最判は、その理由として、労働者が使用者の指揮命令に服すべき立場にあること(地位の従属性)と労働者の情報収集能力の限界(情報の非対等性)に求め、その判断要素として、①変更により労働者が受ける不利益の内容・程度、②労働者が「同意」した経緯・態様、③「同意」に先立つ使用者の情報提供の内容等を挙げています。
そして、上記最判が出て以降、下級審では、賃金面に限らない労働条件の変更、さらには労働契約の解約について、この法理を用いる例が頻出しています。たとえば、妊娠中の退職(TRUST事件東地立川支判H29.1.31労判1156号11頁)、無期契約から有期契約への変更及び定年制の設定(福祉事業者A苑事件京地判H29.3.30労判1164号44頁)、降格(Chubb損害保険事件東地判H29.5.31労判1166号42頁)、職種限定合意を破る配転(学校法人国際医療福祉大学(仮処分)事件宇都宮地決R2.12.10労判1240号23頁)等について同法理が用いられています。
したがって、重要な労働条件の変更、従業員形態の変更等について、雇用主から同意の書面に署名を求められ、不本意ながら署名してしまったとしても、その内容を争う余地がないと考えるのは早計です。最高裁の挙げる上記①~③の要素を踏まえ、自由な意思に基づいて同意したと認めるに足りる合理的理由の客観的存在を精査し、同意の効力を否定できる可能性を検討すべきであるといえます。